宝暦治水
その昔、木曽川本流は各務原市前渡あたりから右よりに流れ、旧羽島郡の周りを巡って流れる「境川」であったと伝えている。しかし多くの支派川は濃尾平野を我が物顔に流れていた。
 天正14年(1588)6月24日、木曽川は大洪水を起し現在の川筋に近い流れとなり、この新しい流れの右岸一帯は、豊臣秀吉により美濃の国に編入されることとなった。 その後も木曽川の出水時には、相変わらず濃尾平野低い所を、ほしいままに流れていた。
  徳川家康が天下を取ると、実子「徳川義直」を尾張藩に入れ、尾張を水害から守るため、慶長13年(1608)木曽川左岸に、伊奈備前守の指揮により、「御囲堤」と呼ばれる大堤防が築かれ、それ以後尾張藩は洪水の脅威から解放された。
  美濃側には慶安3年(1650)にいたり、「篭堤」と呼ばれた堤防が岡田将監(美濃代官)の手により築かれたが、この堤防は「尾張より低きこと3尺たるべし。」とか「増水による堤防被害などが発生した際は、尾張藩の復旧工事が終了しなければ、美濃側は復旧工事に着手することまかりならぬ。」といった、不文律ではあったが理不尽な制約を受けてきた。
  このことは、濃尾平野は東高西低の地形をしており、木曽川、長良川、揖斐川と順に川床が8尺さがりといわれる自然条件と相まって、美濃側は御囲堤ができるまでは、何とか尾張側と分かち合ってきた洪水の被害を全て引き受けることになり、ほとんど毎年のように洪水に見舞われてきた。
  したがって、はじめて治水対策として本格的に取り組まれたのが宝暦治水工事で、これが行われる頃までは、輪中の人々は洪水に対する対症療法的な工事を毎年行い、ときには幕府も大名に命じて工事を行わせたが、あまり効果はなく、地域住民は毎年の水害による凶作に苦しめられていた。
  たまたま宝暦3年(1753)8月に数十年来の大洪水が発生し、そのまま放置できない状況となり、幕府はその年12月25日に、幕府より薩摩藩江戸藩邸留守居役に呼び出しがかかり、以下の簡単な命令書が手渡された。

「濃州、勢州、尾州川々御普請御手伝被仰付候間 可被存其趣候 尤此節不及参府候
                                     恐々謹言
十二月二十五日
                      西尾隠岐守忠尚  判
                     松平左近将監武元 判
                     本多伯耆守正珍   判
                      酒井佐衛門慰忠寿 判
                     堀田相模守正亮   判
松平薩摩守 殿」
この命令書は直ちに早飛脚により鹿児島に送られた。 
 突然の幕府からの命令に対して、藩主島津重年は重臣を集めて大評定を開いたが、この命令を受けるかどうかで藩論がまとまらなかったところ、藩の財政担当であった家老の平田靱負(ゆきえ)が、「この命令を断れば幕府との戦になる。戦で国を滅ぼすよりも、たとへ縁もゆかりもない他国とはいえ、同じ日本のうちの難儀を救うことは人間の本分ではないか、美濃の人々を救い、薩摩魂を見せてやろうではござらんか。」の意見に藩論を統一し、こうして御手伝い普請を薩摩藩は引受けることとなった。
平田靭負(ゆきえ) 像
 この御手伝い普請に要する費用について幕府に問い合わせたところ、当初は14~5万両ということであったが、実際30万両以上の大金を要する旨の内報が江戸表からあったという。これにはさすがの平田靱負もびっくり仰天したのであった。
  宝暦4年(1754) 1月29日平田靱負一行は薩摩の地を出発し美濃に向かった。美濃の養老町大巻にある豪農鬼頭兵内方に着いたのは2月9日であった。ここを本小屋(もとこや)(役館=本部)とし、中島郡石田村・庄屋金太夫方(現羽島市下中町石田)、安八郡大藪村・渡辺勘右衛門方(現安八郡輪之内町大藪)、桑名郡金廻村・庄屋源蔵方(現海津市海津町金廻)、石津郡太田新田・庄屋武平次方(現海津市南濃町太田)、勢州桑名郡にしたい西対海地(にしたいがんじ)新田・百姓平太夫方(現三重県桑名郡木曽岬町西対海地)など5ヶ所に()小屋(出張所)を設け、工事は翌年3月までかかった。
 薩摩藩からの工事参加者947人と現地雇いを合わせて2000人を数え、工事は157ヶ村に及んだ。
  工期は2期に分けられ、第1期工事は急破普請と称し、前年八月の洪水で破損した堤防の復旧工事と、定式普請と称する毎年春に地元負担で施工してきた修繕工事を、命じられたのである。
 第2期工事は水行普請と称し、木曽三大川その他支派川の疎通をよくするための、純然たる新規治水工事であるが、更に入樋普請などは従来自普請として地元負担で行ってきた工事や、田畑掘上などは全く個人の田畑にかかる小工事であるが、それさえも幕府によって御手伝い普請の部類に組み込まれたのである。 工区は地域割りとされ、一の手から五の手の5分割されて行われ、当羽島市はそのうちの「一の手」に属し工事が行なわれた。以下、羽島市の遺跡など中心に簡単に工事の概要をみていきたい。
  第2期工事に取り掛かる前に、出水等による状況変更により水行普請計画の変更があり、五の手の計画が中止になり次の四区域にわけて工事が行われた。
 
一の手  愛知県祖父江町・神明津輪中~羽島市桑原町・小薮輪中
二の手  愛知県海部郡弥富町・森津輪中~三重県桑名郡木曽岬町・田代輪中
三の手  安八郡墨俣輪中~海津町・本阿弥新田輪中
四の手 海津町・金廻輪中~桑名市地蔵
 また、宝暦治水工事の中でも最大の難工事でもあった。油島新田締切堤新築普請(四の手)や、大榑川(おぐれがわ)締切堤新築普請(三の手)も組入れられたが、沿川の各村の利害が一致せず、油島新田締切はこれを行うと常水位が高くなるという理由でこれに反対してきた。また全部締め切っては出水のとき危険であるというので、北方・油島新田から550間、南方・松の木村から200間の締切堤を突き出して、中300間を開けるということに落ち着いた。
 一方揖斐川沿川198ヶ村からは、御手伝普請をもつて大榑川を本堤で締め切ってもらいたいと願出ていたが、出水の際、長良川堤及び油島締切堤に悪影響を及ぼすという理由で、洗堰を築造することとなった。
 この2工事に次いで難工事と目されたのは、一の手に属した逆川入口洗堰締切普請(10間≒18m高さ3m・逆川河口幅は79間)であった。この川は駒塚村と西加賀野井村との間(現在の新幹線及び名神自動車道路の木曽川橋、羽島市側の辺り)から木曽川が分流して、竹ヶ鼻付近で足近川を合わせ川口村から長良川に注いでいる。分流点では急流であり川底も深く、地域住民に恐れられていたもので、この水脈を遮断して禍根を根絶するために画策された。
 この工事は宝暦4年(1754)11月13日着手し、翌年12月11日意外に早く完成した。しかし宝暦5年2月1日木曽川出水により、地底の砂を噴出し6間ほどの間石篭が3尺ほど下がってしまった。役人に届出の上ただちに修復工事にかかり3月27・28日までに一の手全部の普請が完成して内見を受け、4月16日から21日まで受持ち役人立会いの上、幕府の出来栄え検分で目付以下10名の厳しい検査を受けたが「御手伝普請結構に出来致して御座候」との賞辞を賜って一の手の工事が完了した。
  御手伝普請とは、大名を指名して幕府が行う企画立案施工の天下工事であるが、宝暦治水工事に薩摩藩が使った資金は約40万両(約300億円)といわれいる。 こういう手段で大名を痛めつけ、半分は幕府対してクーデターを起こさせないように、藩の力を削るのを目的とした政策である。八代将軍吉宗存命中は、幕府と薩摩の間は大変良好であった。しかし当事者が亡くなり代替わりとなったところで、外様・親藩合わせた中で、第二位の国力を誇っていた薩摩藩に白羽の矢が向けられたのである。
  こうして、宝暦治水は薩摩藩の財政を極限まで逼迫させる難事業となった。薩摩藩士たちは国許を離れ、死ぬ思いで治水工事に携わったのだが、その苦労も報われず、工事そのものは大赤字を生み出し、工事責任者は自身が人身御供となる覚悟で文字通り詰め腹を切り、事態を収拾することとなった。
 そのことは、平田靱負は5月25日に、島津重年公に工事完成の書簡を出し、養老町大牧の役館にて東の日の出を拝し西方に向かい「住みなれし 里も今更 名残りにて 立ちぞ わずらふ 美濃の大牧」という辞世を残し、自害や病死にて散って行った若き藩士達・工事の全責任を取り自害をした。 享年52才。
  平田靱負の死を聞き、藩主島津重年公の病気もそれ以後急激に悪化し6月 16日、27才の若さでこの世を去ることとなった。
 割腹52名・病死33名   総費用約40万両(約300億円)
  残った藩士たちは、この苦闘に耐えて治水工事を成した完成記念と、空しく散っていった亡き藩士たちの弔いと言う複雑な気持を込めて、薩摩から日向松を取り寄せ油島に植えつけた。
 いまでいう千本松原の、あの松こそ薩摩の人たちが血と汗と涙と感情が混ざった遺品なのである。
 薩摩のこれまでの総借財約271万両は、幕府をあてにせず砂糖を製造し、泡盛酒・陶器などを製造して20年有余年かけ中国・韓国ヘ輸出して返済したとも言われている。
 
千本松原
   
 犠牲者  
 この宝暦治水の工事は、安八郡墨俣付近~桑名市・愛知県弥富町まで堤防延長 約120kmを堤防修復や堤防新築など、薩摩藩士たちが土工姿で約1年半かけて前代未聞の工事をやり遂げた。
  しかし、厳しい屈辱の日々が続いた。例えば、「物品は決して安く売るな。」とか藩士たちが身を寄せる宿泊先の村人たちに食事は「一汁・一菜だけ・酒や魚は禁止」「病気になっても必要以上に手当はしなくてもよい」など過酷な掟であった。
  また、第一期工事が終わり第二期工事にかかるまでの夏の間は、次の工事に備えて資材の調達に奔走し、輸送した石材の石積みや木材を集積して、その結果を役人に申しでると「これでよい」と答えたのに、代官が「こんな積み方ではいけない」と言って藩士達を足蹴りにするなどの行為や、0Kを出した役人も同様に「私の指示通り積んでいない」と責任を回避したりした。これに対して藩士たちは何も言えなかった。
  逆川(一の手・羽島市)でも工事完成間近になると密令された者によって、工事完了区域が破壊されるなど非情なものであった。
 さらに、この時期(宝暦4年初夏の頃)に感染症(赤痢)が流行し、その殆どは薩摩藩の中間、下人が罹患したと伝えられている。
 羽島市内にある宝暦治水工事関係犠牲者の墓所は以下の三箇所にある。
 
①薩摩義士 甚八  
 宝暦4甲戍年5月24日没
 少林寺 (羽島市竹鼻町狐穴740・臨済宗妙心寺派)  宝暦治水の病死者は合わせて33名で、彼の病死は、第一期工事の水害復旧が終わった時期で、逆川の修復や石田の猿尾の修復などに従事した。
 彼の「少林寺」ある墓碑には「家山紹珍信士」とあり、その右側に「宝暦四甲戍五月念四日」(念は20の異称)  左側に「薩摩義士俗名甚八」
 裏面には「薩州永山権四郎之仲間而田代村之人也 石田村御普請之節 普請所病死 依上達千尾州役所 又得薩州主人之一札而葬千当時方丈之西北隅之五輪石以為墓標 矣住持太霊大」
 右側面には「震水等の災禍を経て義士の墳墓隠滅せんとするを嘆き郡内町村より資金を得てこれを修復し以て偉霊を慰む 時に昭和12年朧月竹鼻町長謹識」とある。
 
   
②清江寺(羽島市江吉良町451)  
 ここには、一の手出張小屋に属した、薩摩藩士で奉行の瀬戸山石助、同副奉行平山牧右衛門、同副奉行大山市兵衛が祀られている。
  彼らは幕府役人の仕打ちに我慢に我慢を重ねてきたがその限界を超え、ついに先ず瀬戸山石助が宝暦4年8月9日割腹し、続いてその初七日の8月15日平山牧右衛門、さらにその初七日の8月21日に大山市兵衛と相次いで自刃して果てた。
  このように、藩士たちは、役人、幕府からのことばに尽くせない痛め付けを受けたとのことであるが、みな恨み言一つ遺さずに、この時期にこのようなことで、他の場所とも合わせて36名もの割腹者を出してしまった。   清江寺住職鉄船師は深く三義士の死をいたみ、禁を犯して寺内に葬った。
墓石には、宝暦四甲戍年八月九日  格心智外居士 薩摩国俗名瀬戸山石助
宝暦四甲戍年八月一五日 空居浄心居士 薩摩国俗名平山牧右衛門
宝暦四甲戍年八月二一日 助音良随居士 薩摩国俗名大山市兵衛
  この清江寺では、地元近在の人々によりねんごろな報恩会が営まれている。
 
   
③竹中伝六喜伯(1727~1755)  
 宝暦5乙亥歳正月13日没
 真宗大谷派竹鼻別院(羽島市竹鼻町)境内に
 「春光院釈法善 宝暦5乙亥歳正月13日」
 「武州江戸本郷元町住竹中伝六喜伯墓 行年29歳」  幕命により幕府方役人・御小人目付けとして、江戸より赴任し一の手工区に配属、庄屋太田八右衛門方に止宿して、工事に精励した。第一期工事は無事完了し、第二期の逆川の木曽川口の締切工事に着手したが、締切や石田の猿尾等の難工事が相次ぎ、工事は天候や人為的な妨害によって遅々として進まなかった。
 第二期工事がほぼ終わった正月に、突然、旅館藤丸屋にて腹を賭して短い生涯を終わった。死因は全く不明である。

竹中伝六の墓 
 治水工事を指令されて実施した薩摩側だけでなく、監督側の幕府役人においてもこのほかに自刃者が出ていることは、幕府側からいかに理不尽な扱い(いじめ)が行われたか、想像を絶するものであった。これを耐えて、お家のため主君のためにと、歯を食いしばって耐えていたが、屈辱・忍に絶えられず再び「あの噴煙たなびく桜島を眺める」こともなく自害する者、家族・家庭・子を思いながら、必要以上の手当もしてもらえぬまま病死する者。風土・言葉・徒労感や責任感・失望感も想像に絶するものがあったことであろう。
 

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